ミュージカルは歌が上手に歌えてこそ!人より上手くなれる本当は教えたくない秘密の練習方法

プロフィール

はじめまして

当ブログにご訪問頂きありがとうございます。当ブログの管理人、観音美です。

私は、長年ダンサーとしてミュージカルの舞台に立ち、またオペラ歌手としてオペラやオペレッタの舞台に立ってまいりました。結婚と出産、育児のために舞台を一旦お休みしましたが、その代わりミュージカルの舞台を目指す人たちに歌を教え、教えた生徒たちは、劇団四季や宝塚に入りたいという夢を叶えて今でも舞台で活躍してくれています。

このブログでは、劇団四季に入りたい!宝塚に入りたい!と思っているけど、どうすればよいか分からないという方に向けて劇団四季や宝塚に入るためのノウハウを発信しています。このノウハウは、私が実際に自分が経験してきたこと、生徒たちを教えてきた経験を元にしております。

なぜ私がこのブログを始めることになったか、その経緯と私の生い立ち、このブログを通してお伝えしたいことをご紹介したいと思います。

観音美

まず私の主な経歴をご紹介します♪

3歳からバレエ、ピアノを始める。中学生の時に宝塚の舞台を観て憧れる。宝塚受験に挑戦するも不合格。

音楽大学声楽科に進学しながら、ダンスの研鑽を積む。19歳で東宝芸能ダンスセクション(現東宝芸能エンターテイメント)に合格し、ミュージカルの舞台、ディナーショー、TVなどにダンサーとして出演。

大学在学中、オペラ出演をきっかけに歌の魅力に惹き込まれ声楽の道に本格的に取り組むことを決意。

大学卒業後、オペラの舞台にソリストとして初舞台を踏む。

その後、二期会オペラ研修所に入所し、研修生時代にも数々のオペラ舞台に主役またはソリストとして出演。二期会研修所のマスタークラス修了時に新進演奏会に選ばれる。

研修所修了後も数多くのオペラ、オペレッタの舞台に出演するが、結婚と育児のために舞台活動は一旦休む。

劇団四季や宝塚を目指している人に声楽のレッスンを始め、生徒たちの合格率が80%になる。

 

目次

宝塚を目指した青春時代

小さい頃からバレエ、ピアノ、お習字、英語と習い事ばかりしていて、学校帰りにお友だちと遊んだ記憶はありません。バレエもピアノのも1歳違いの姉がやっているからついでに習うという親の動機で始めたもので、特に興味があるわけでもなく楽しくもありませんでした。ただ、ピアノの発表会やバレエの発表会で舞台に立つことだけは大好きで、お客さんがたくさんいる中で演奏したり踊ったりすることに喜びを感じていました。

中学生の頃、土曜の昼に何気なく観たテレビに目が釘付けになり、今までに経験したことのない衝撃を心に受けました。

『宝塚』でした。

きらびやかで美しく、華やかに踊り歌い、豪華な衣装と眩いメイク、そして見たこともない美しさの人達が洗練された動き。心を掴まれ、宝塚に魅了されました。

しかし、地方育ちの私には、その宝塚がどこにあって、どういう団体で、どのように入れば良いのかも全く知らなかったのです。旅情報誌るるぶの雑誌の表紙に、宝塚という文字をみて、兵庫県にある宝塚市に宝塚歌劇団というものがあるということを初めて知ったというくらいの無知さでした。その情報誌を購入し、小さな宝塚歌劇の写真を切り抜いてお守りにしていました。

『宝塚を見てみたい!』そう思い、父に懇願し、父の知り合いの知り合い、そのまた知り合いの旅行会社の方にお願いしてチケットを購入し、観に行けることになりました。

それが涼風真世さんのトップお披露目『ベルサイユのばら~オスカル編~』でした。

私、絶対ここに入りたい!!!

そう思い、今まで何気なく習っていたバレエを真剣に取りくむようになり、週3回通っていたバレエを週5回通うことにしました。ピアノの先生に声楽の先生を紹介してもらい、週2回声楽を習うことにしました。元々練習嫌いでしたが、宝塚に入るためなら!と思うと練習がしたくてたまらなくなるほどになりました。

中学卒業で受験することは、親に反対されたので、高校1年生が終わった春に、初受験しました。

そこで私は、受験生のあまりの多さに圧倒されてしまいました。
同時に、受けに来る子たちの綺麗さに自分自身を見失ってしまい、ただ思うことは『場違いなところに来てしまった・・・』ということだけでした。受験会場にいるのが恥ずかしくてたまらなく、バレエも歌もレッスンの成果を発揮することなく、上手く踊れず、歌えずで初受験を終えました。(当時は、歌もバレエも一次試験で行われました。)


当然、初受験は、一次で失敗に終わりました。


すっかり自信をなくしてしまい、2回目を受験するかどうか迷いました。
そんなとき、自分の通っている高校の先輩が宝塚に合格されたことを聞きました。
その方は、地元にある宝塚出身の方が教えているジャズダンススクールに通っていたことを聞き、そこに私も入って頑張ってみようと思い、そのジャズダンススクールに通うことにしました。

そのジャズダンススクールは、宝塚に入りたいと思っている同年代の子は4,5人いましたが、宝塚受験専門のスクールではないようでした。このジャズダンススクールに通いながら、今まで通っていたバレエ、声楽にも通い、毎日レッスンという日々を送りました。

そして2回目の受験に挑みました。今回は、他の受験生に臆することもなく、恥ずかしい気持ちにもならず、試験に頑張って挑むことができました。

しかし、また一次で不合格。。。

同じジャズダンススクールに通い、一緒に受験した子たちも同じく一次で不合格になりました。

『どうすれば、合格できるの???』

2回目の受験ではかなり自分なりに頑張りました。毎日のようにバレエとダンスのレッスンに通い、声楽のレッスンにも通いました。そして家での練習も欠かしたことはありませんでした。

それなのに、一次も通過できないなんて。。。やっぱり無理なのかなぁ。。。

自分を元気づけようと帰りの新幹線で読むための『宝塚おとめ』という宝塚劇団員の写真が載っている本を購入して私は宝塚を後にしました。

新幹線で宝塚おとめを読んでいると『宝塚受験スクール』の案内が書かれていました。そこには、『合格者続出。トップ娘役を輩出。』などと書かれていました。
まだインターネットが発達していない時代のことです。

私はすぐそのスクールに行きたい衝動にかられました。しかし私の住んでいるのは名古屋。行きたいスクールは東京です。
通うことができるのだろうか。。。でも、合格できるなら行きたい!宝塚受験は、もう後がない!次回がラストチャンスなんだ!と思うと居ても立っても居られなず、両親に相談しました。

両親は必死になって懇願する私をみて、そのスクールの見学にいくことを許してくれました。

母親と宝塚受験スクールの見学に行った私は、カルチャーショックを受けました。
今まで受けていた歌のレッスンやダンスのレッスンと雰囲気がまったく違っていたからです。

そしてそのスクールには(ちょうど春休みだったこともあり)、宝塚音楽学校の生徒さんが7名、その年に合格した方が5名ほどレッスンに来ていました。

こういう人が宝塚に合格するんだ・・・!

実際合格した方や、音楽学校に通っている方を至近距離で見て違いがはっきり分かったのです。

こういう人たちのような雰囲気を身につければ私も合格できるかもしれない!と思い、両親に必死にお願いしそのスクールに通うことになりました。

学校終わったら急いで名古屋駅から新幹線に乗り、東京へいきスクールに行ってレッスンを受け、レッスンが終わったら最終の新幹線に乗るために急いで東京駅へ行き深夜に家に帰る、という生活を週に3,4回していました。
最終の新幹線に乗り遅れ、夜行電車に乗って帰ったことも少なくありません。

レッスンはそれはそれは厳しいものでした。ダンスも歌も厳しかったですが、とても楽しかったことが印象に残っています。
レッスン代も交通費も莫大にかかり、1か月のレッスン代と交通費は50万円以上かかっていたと思います。
父は今しかできないことだからお金のことは心配しないでやりなさいと言ってくれましたが、もし不合格だったら。。。と思うと通うことが怖くなっていきました。

ちょうどその頃、同じ東京でも遠方の人でも土日に寮を利用して通える宝塚受験スクールがあるということを聞きました。
早速そのスクールに見学にいき、レッスン代が通っていたスクールよりも比較的安かったこともあり、通ったスクールをやめて土日に通える受験スクールに移ることにしました。

新しい受験スクールでは、面接を重視しており、以前に通っていたスクールより簡単なんだなという感じでした。

そこで学んだ宝塚受験におけるのはダンスや歌のスキルよりも面接で受かるノウハウ。

受験日になり、第1次試験に初めて合格し、第2次試験も合格することができました!
最終面接で、残念ながら不合格になってしまいましたが、第1次試験も突破できなかった以前を思えばよく頑張ったと思います。

宝塚受験不合格後・・・

不合格になった後は、しばらく落ち込みましたが、東宝芸能ダンスセクション(現東宝芸能エンターテイメント)のオーディションを受け合格し、数々のミュージカルオーディションを受けるようになりました。

同時に音大の声楽科に進学し、大学の夏休みや春休みを利用して出演できるミュージカルのオーディションを受けていきました。
なかなかミュージカルのオーディションには受かることができませんでしたが、何回か受けていくうちに、受かっていく方を研究したり受かった方と仲良くさせていただいたりして、合格できるようになっていきました。

私は音大の声楽科に通っていましたが、ダンサーとして舞台にたっていました。
そのおかげで大学の先生が主催するオペラの舞台でダンスの振り付けをしてほしいと頼まれました。
そこで初めてオペラの舞台に接しました。
マイクなしで自分の体から素晴らしい声を出し、歌い、演技するオペラ歌手を目の前にして

何て素晴らしいんだ!

と思いオペラを勉強したい!という気持ちでいっぱいになりました。

大学生活をあと2年残したというところで、歌に目覚め、声楽の勉強にはげみ、はまっていきました。
大学1,2年のころは、歌の成績は中の下でしたが、レッスンに通い猛練習をしたこともあり、4年生のときには上位に入り卒業演奏会に出演もしていました。

音大卒業後・・・

音大を卒業し、オペラの勉強をしたいと思い、私は二期会オペラ研修所に入所しました。

二期会オペラ研修所でオペラの勉強をしながら、オペラの舞台に立って研鑽を積んでいきました。
そしてプロとしてオペラの舞台に立つようになったころ、劇団四季のオーディションを受け合格しました。

しかしながら同時期に、オペラの舞台主役をいただいたこともあり、合格いただいたにもかかわらず四季の入団を辞退しました。

その後は、オペラの舞台を中心に活動しながら日々歌の練習に励み、レッスンへ通うという充実した毎日を過ごしていました。
勉強の意欲がさらに湧き、海外への留学を考えていた矢先、父が病で倒れて余命3ヶ月と宣告され、予定した舞台や留学をすべてキャンセルし実家へ戻り、家族で看病することになりました。

突然、父の余命宣告

父は入院をしていましたが、自宅にいたいという希望があったので家族で看病することにしました。
父は自営業でしたので、仕事のことは母が代わりにすることになり家での看病は私がすることになりました。

父の看病の傍ら、自宅で歌とピアノを教え始めました。
私の経歴を知っている知人の娘さんが子供ミュージカルを目指していているけれどどうすればいいか分からないというのでアドバイスしながら歌やダンス、演技などをレッスンしました。
するとその子は、オーディションを受けた途端合格し舞台に立つことができたのです。

そのことを聞きつけて、ミュージカルに出たい、劇団四季に入りたい、宝塚に入りたい、という方がレッスンを受けに来るようになりました。

父は、余命3ヶ月といわれましたが半年後亡くなりました。

しかし、人を教えることのきっかけをつくってくれました。
そして自分自身の経験が舞台に立ちたいという人の夢を叶えるちょっとしたお手伝いができることに喜びを感じ生きがいになっていきました。

父が亡くなってからも、舞台や歌の演奏会は続けていましたが、どうちらかというと教えることが中心になっていきました。

このサイトを立ち上げた理由

そして縁あって結婚することになり、出産をし子育てを中心にしたいという思いもあり、舞台活動は最小限になり、レッスンも今では人数を限定してほそぼそとやっています。

それでもありがたいことにレッスンを希望してくれる生徒さんがいるのですが、時間があまりなくお引き受けすることができません。

そこでこのようにサイトをつくり、少しでも舞台に立ちたい!という方の役に立てればという思いで立ち上げた次第です。

さいごに

ミュージカル、そして劇団四季や宝塚へ入るためのノウハウに自信を持っていますが、
人それぞれに個性がありそのノウハウがすべての人に必ず当てはまるということはありません。

それでも知らないより知っていたほうがいいというお役に立てる情報を発していきたいと思いますので
どうぞよろしくお願いいたします。

 

目次